1 歴史検証

 石城山神籠石は当初から土塁の土留石か
 

 

 
 山口県光市大和町に、標高360mの石城山(いわきさん)があります。この山の8合目あたりを列石が回っており、この列石は神籠石(こうごいし)と呼ばれ、これまでその起源について、論争がありました。神域説、山城説と明治以来、いろいろと論じられてきましたが、昭和38年、39年に発掘調査が実施され、この神籠石は山城の土塁の土留石であると報告されました。
 初めて、整然と並び、きれいに整形された列石、神籠石を見たとき、なぜこれを土塁の土留石にしたのか、疑問に思い、理解ができませんでした。
 この神籠石は、外からの人の目線を意識しており、磨かれた神籠石は、当初は表から見えるように、露出して設置されたのではないかと考えるにいたりました。
 7世紀初めからのことが詠まれている万葉集に、神の斎垣(いかき)や標縄(しめなわ)といった言葉があり、中へはみだりに踏み越えてはならない、「閉じ込められた聖なる空間」の磐境(いわさか)の意味に用いられています。神籠石はこの斎垣にあたるのではないでしょうか。万葉集(2663) 「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし今はわが名の惜しけくもなし」。
 近年の帯隈山神籠石調査(佐賀市、平成2年)では、土塁は確認できず、稜線の揃う列石が発掘され、また、御所ケ谷神籠石調査(行橋市、平成5年)でも、城砦のラインの一部に列石を伴わない土塁が発見され、このラインの内側に、列石だけのラインが別にあることが確認されており、当時の石城山神籠石調査が傍証としたことが崩れてきています。
 したがって、石城山神籠石は、当初の7世紀前半までに、磐境、斎垣として構築され、白村江の戦(天智2年、663)以降、戦雲急を告げる7世紀後半に唐・新羅侵攻に備えて、この神籠石を利用し、土塁を造成し、山城とした考え、ここに、「時差神域説」を提起するものであります。
 詳しくは、『山口県地方史研究』第89号 山口県地方史学会 を参照してください。
 


社倉は農民のためになったのか  広島藩の社倉

 社倉とは、江戸時代に、飢饉対策または困窮者への貸与を目的として、穀物を供出させて蓄えた貯蔵倉およびその運用制度をいいます。
 広島藩の社倉は、制度として寛延2年(1749)から明治12年(1879)まで、130年間続きましたが、この社倉は農民のためになった救済制度であったのでしょうか。
 江戸時代は災害が数年おきにやってきました。通してみて、大小の災害が4年おきに襲ってきて、農民を苦しめました。とくに、江戸中期以降は大きな災害があり、享保、天明、天保期には大飢饉となりました。享保の飢饉が社倉実施の嚆矢(こうし)となりましたが、天明、天保の飢饉の際に、社倉は効力を発揮したのでしょうか。このことについて、確とした資料はなく、広島県史をはじめ、各町史にも触れられていません。資料を調べているうちに、大飢饉には、不完全な社倉では、風前の灯火(ともしび)であったのではないかと考えるに至りました。
 また、社倉を管理、運営するために、明和7年(1770)以降は藩のもとで、各郡の割庄屋の下に4人の社倉支配役をおき、村の社倉十人組の組頭を統括しました。農民の返済は共同組織で責任をもち、取立ては社倉組織で責めたてられました。
 事実、社倉が実施されて27年後の寛政9年(1797)、藩から社倉の実態について意見を求められた藩儒頼春水は、「凶年に備えるといって、年々高い割合で出させ、利倍のために貸し付けて利息をとるので、年貢以外に出すものが増加して、下のものどもは痛みいり、社倉などなければよいと考える者もおる。返納時、藩の御威光を背景に強制的に取り立てるので、他から高利のものを借り替えて返納しなければならない。」と述べています。まさに、現代版サラ金地獄のような実態があったのでしょう。
 広島藩は、幕末の文久2年(1862)、たび重なる災害、飢饉には、従来の貸付を主体とした社倉では、現実に即応しないことを認め、郡全体で備蓄し、貸付を行わない「新社倉穀」を唱えてましたが、あまり効果をあげなかったようであります。
 安芸郡矢野村(現広島市)の尾崎八幡宮宮司香川将監(かがわしょうげん)が実施した社倉は、藩主導となり、そもそも藩財政がよくない背景のもと、自然災害が多発した江戸中期以降、尾崎八幡宮傘下の矢野村、押込村では効を奏したでありましょうが、それも将監が存命した一時期だけで、総じて社倉制度はその思惑どおりにはいかなったと考えます。
 明治4年、廃藩置県により前藩主浅野長訓(あさのながみち)一行の東京出立ちの阻止から端を発した騒動が、日頃からの庄屋、豪商などへの鬱憤(うっぷん)となり暴動化して、県下全体に波及し大一揆となった、いわゆる「武一騒動」も、社倉制度の不満がその一因になったのかもしれません。
          
  
落合郷土史研究会会誌 『甲申』(第1集)の「社倉の成否」から

下筒賀の社倉(安芸太田町)

1 石城山からの眺望

2 随身門

3 石城神社

4 神籠石

5 浜本汎生先生
  から説明を受ける

6 三浦正幸先生調査

7 内田 伸先生調査

8 郷土史紀行のメンバーと

9 落合郷土史研究会調査

10 落合郷土史研究会調査

写真説明